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新潟家庭裁判所 昭和57年(家)1023号 審判

申立人 石上研二

不在者 石上浪子

主文

本件申立てを却下する。

理由

第一申立ての趣旨及び実情

申立人は不在者の父親であるところ、昭和五七年二月二七日東京代々木の国立オリンピック記念少年総合センターにおいて行なわれた中国残留日本人孤児の肉親捜しの中で不在者の生存していることが判明したので、札幌家庭裁判所がなした不在者に対する戦時死亡宣告の取消しを求める。

第二当裁判所の判断

一  本件における主な資料等

1  申立人提出にかかる資料

〈1〉 石上研二の戸籍及び除籍

〈2〉 中華人民共和国遼寧省瀋陽市公証處公証員作成の徐美明が日本人孤児であるとする旨の公証書

〈3〉 厚生省援護局業務第一課調査資料室長が申立人に送付した「訪日孤児と関係者が面接の結果肉親関係が確認された者」と題する書面

〈4〉 家族と共に写つている不在者の写真

〈5〉 申立人の妻里の写真

〈6〉 徐美明の写真入りの記事のある昭和五七年二月二一日付新潟日報朝刊

〈7〉 申立人作成の陳述書と題する書面

〈8〉 医師○○○○作成の証明書と題する書面

2  厚生省より当裁判所に送付された資料(いずれも写し)

〈1〉 徐美明から厚生省あて昭和五一年七月二五日付、同年九月一日付、同月二五日付、昭和五二年四月一四日付及び昭和五六年二月二二日付並びに盛岡市役所あて昭和五一年八月一一日付各手紙(いずれも日本語訳文)

〈2〉 厚生省から徐美明あて昭和五一年八月二四日付及び同年九月一〇日付各手紙

〈3〉 厚生省援護局調査課作成の徐美明の通信文(第三回)と写真の送付についてと題する書面

〈4〉 徐美明が大沢幸子であるか否かについて岩手県が広田すゑ及び大野一郎に対して面接調査した際の調査票等

〈5〉 厚生省援護局業務第一課長作成の中国残留日本人孤児(徐美明)問題について(回答)と題する書面及び中国残留孤児の身元調査について(通知)と題する書面

〈6〉 外務省アジア局中国課長作成の中国残留日本人孤児(徐美明)問題についてと題する書面

〈7〉 岩手県福祉部長作成の中国残留孤児の身元調査について(回答)と題する書面

〈8〉 在中国○○大使作成の徐美明に係る事実調査についてと題する書面

〈9〉 厚生省援護局業務第一課調査資料室作成の訪日孤児と関係者の面接結果と題する書面(徐美明と広田すゑとが対面した際に作成された資料)

〈10〉 不在者石上浪子に関し未帰還者として厚生省等が調査した際の関係資料

〈11〉 申立人が徐美明と面接した際に作成された関係資料

〈12〉 血液型検査簿

3  盛岡家庭裁判所より当裁判所に送付された資料

〈1〉 盛岡家庭裁判所調査官作成の調査報告書

〈2〉 徐美明の盛岡市役所あて昭和五一年七月一五日付、広田すゑあて昭和五一年九月二四日付、昭和五二年一月一三日付及び昭和五三年九月二日付並びに外務大臣○○○あて同年一〇月二〇日付(写し)各手紙

〈3〉 大沢とくの写真二枚

〈4〉 岩手県福祉部厚生援護課長作成の昭和五四年五月一七日付中国残留孤児についてと題する書面並びに同課長が広田すゑに送付した林光成から徐美明あて昭和五四年三月二〇日付及び同月二六日各手紙(写し)並びに徐美明から在中国日本大使館及び岩手県あて同月一四日付及び同年四月二六日付各手紙(写し)

〈5〉 同課長作成の中国残留孤児の身元調査についてと題する書面並びに同課長が広田すゑに送付した徐美明から在中国日本大使館あて昭和五四年八月八日付及び同年九月一〇日付各手紙(写し)

〈6〉 同課長作成の昭和五六年三月二四日付中国残留孤児についてと題する書面及び徐美明の同課あて昭和五六年二月二二日付手紙(写し)

〈7〉 大沢幸子の除籍(写し)

4  申立人(一、二、三回)、石上真及び石上京一に対する各審問結果

二  本件申立てに至る経過

一1記載の各資料及び申立人に対する審問の結果(一、二回)によると、次の各事実を認めることができる。

1  申立人は、明治四四年一月一八日北海道で生まれ、昭和七年軍隊の満州派遣に伴つて渡満し、昭和九年現地除隊となり、満鉄等に勤務した後、昭和一九年からは奉天省新民街○○区××号に居住し土木請負業を営んでいた。この間、申立人は、昭和一四年一二月二三日時田里と婚姻し、長女浪子(昭和一四年一二月七日生)、長男京一(昭和一七年四月二〇日生)、二男政司(昭和一九年一一月一一日生)をもうけたが、昭和二〇年五月一日関東軍に応召し、同年八月二〇日召集解除となり、奉天市で家族と再会した直後、ソ連軍の捕虜となり家族と生き別れとなつたが、昭和二二年ナホトカを経て日本に帰国した。他方、妻里は昭和二一年単独で日本に帰国した。申立人は、妻里より昭和二〇年九月二〇日同女が発疹チブスに罹患し奉天市内の風月旅館で休んでいた折、三人の子らは中国人によつて連れ去られて行つた旨聞かされていた。なお、妻里は昭和五四年三月二日死亡している。

2  石上浪子の戸籍は、昭和三八年四月二〇日未帰還者に関する特別措置法に基く戦時死亡宣告が確定し、昭和二七年九月二四日死亡とみなされ、昭和三八年五月九日除籍となつている。

3  申立人は、昭和五七年二月二一日、同日付○○日報朝刊紙上で、いわゆる中国残留日本人孤児として肉親捜しのために来日していた徐美明の写真入りの記事(前記一1〈6〉)を見た際、その顔が妻里と似ていると感じ、厚生省に連絡をとり、同月二七日東京代々木の国立オリンピック記念青少年総合センターにおいて徐美明と面接した結果、お互いに親子であることを確認し合つた。

4  このときに、徐美明が申立人の長女である不在者石上浪子であることの根拠になつたものは次のとおりである。

〈1〉 徐美明の目もとが、申立人に似ている。

〈2〉徐美明の耳たぶ、まゆ毛が不在者の母里に似ている。

〈3〉 里は当時花模様の着物をよく着ていたが、徐美明もこのことを記憶していた。

〈4〉 徐美明は、子供のとき負けん気で泣くときは、壁に向かつて泣いていたことを覚えているが、不在者も当時気性の強い子で同様の癖があつた。

〈5〉 徐美明の父に対する印象は「トオチャン」しか覚えていないが、不在者は父に対しよく「トオチャン」「トオチャン」と呼んでいた。

5  申立人の血液型(ABO式)はAB型であるが、妻里の血液型は不明である。

6  申立人は、昭和五七年四月五日当裁判所に本件申立てを行うと共に、一1記載の各資料等を提出した。

なお、徐美明は本件申立て前に、中国に帰国した。

三  徐美明が不在者石上浪子と同一人であるか否かについての検討

1  当裁判所は、本件申立ての当否を判断するために、申立人を審問すると共に申立人提出にかかる前記各資料等を検討したが、徐美明が不在者浪子であることの根拠とされた前記二4〈1〉ないし〈5〉のうち、〈1〉及び〈2〉に関していうと、本件においては写真を見比べてみても徐美明の顔が申立人あるいは妻里の顔に親子であることを推認させる程に酷似しているとはいえず、〈1〉及び〈2〉は親子確認の一つの手がかりとはなつても決定的な証左とはなりえないし、また、〈3〉ないし〈5〉は、いずれもさして珍らしい事象とはいえず、したがつてこれらに関して申立人及び徐美明の記憶が一致していたとしても、終戦直後の混乱の中で旧満州において親と生き別れとなつた日本人の子が多数いたことは周知の事実であり、このような事実を考慮すると、〈1〉ないし〈5〉の事実を総合したとしてもこれらの事実から直ちに徐美明が不在者であると認定することは困難であるという判断に達せざるをえなかつた。

そして、前記申立人の提出した資料中、徐美明に関する資料としては、中国当局の発行したいわゆる孤児証明(前記一1〈2〉、徐美明(女、一九四二年生、遼寧省瀋陽市○○区○○○○×段○○○○×棟×楼×号)が日本人孤児であることを証するという結論のみを記載した簡潔なものであつて、その理由等は付記されていない。)しかなく、徐美明の記憶する生別時の状況等については新聞記事(前記一1〈6〉等)により間接的に知れるのみであつたので、当裁判所は、厚生省に対し徐美明に関する残存資料の送付方を嘱託すると共に、これまで徐美明と六年間にわたり文通をしていたという(前記新聞記事により知り得た)広田すゑに対する調査を盛岡家庭裁判所に嘱託した。そして、これにより得られた資料が、前記一2及び3の各資料等である。

2  前記一2及び3の各資料等を総合すると、次の各事実を認めることができる。

〈1〉 徐美明は中国において中国人元敬達に養育されたが、物心ついたころから自分が日本人の子であるという認識を持ち、いつか自分の本当の両親に会いたいという希望を有していたところ、昭和四八年ころ自分は大杉敬子であると主張し大杉家とも連絡をとつていたが、後にこれを撤回し人違いであることを認めるに至つた。この点につき、徐美明は、自分は父母と一緒に奉天で暮らしていたこと、父がソ連軍に連れて行かれたこと、弟がいたこと等を記憶していたところ、瀋陽市に居住する日本人から、日本国内より寄せられた孤児探しの資料を紹介され、その中で大杉家の状況が自分の記憶していたものとよく似ていたので、親を見つけ出したいという心情が切迫していたこともあつて、大杉家に連絡をとつたが、自分が大杉敬子であると名乗る女性が他に現われたため、中国の公安局が調査に乗り出し、その結果、二人とも大杉敬子でないことが分つたのであると説明している。

〈2〉 その後、徐美明は大沢とくの女学校時代の写真(前記一3〈3〉)を入手し、その裏面に書いてあつた「大通り○○」の記載を手がかりに、昭和五一年七月盛岡市役所に同写真を同封した手紙を出し、自分の母親は大沢三重子であるからその行方を捜して欲しい旨依頼し、その結果広田すゑ(岩手県岩手郡○○町××○○字○○×××―×在住)との文通が始つたが、同女は徐美明より送られてきた写真が姉のものに間違いなかつたために、初めは徐美明を姉大沢とく(本籍茨城県鹿島郡○○村大字○○××××番地の×)の長女大沢幸子(昭和一七年二月二〇日生)と思い返事を出していたが、前記写真の入手方法等に疑問を抱き、徐美明が姉の子であることを認めるのをちゆうちよしていた。

徐美明はこの写真につき、大筋次のように説明している。すなわち、前記大杉敬子の問題が決着した後、中国公安局に徐美明の親族の調査を依頼したところ、公安局は徐美明を養育した元敬達ら関係者の調査を行い、その結果、徐美明の母と同棲していたことのある中国人林光成(改名前理祥)を突き止め、同人から事情聴取するとともに前記写真を入手し、これを徐美明に交付したというのである。なお、徐美明が大沢幸子に間違いないという林光成から徐美明あての手紙(写し)二通(前記一3〈4〉)が存在する。

〈3〉 徐美明が幼児期の記憶として述べていることは、広田すゑから聞かされた事実あるいは中国の調査当局から聞かされたのではないかと想像される事実等が渾然一体となつており、いずれが純粋に徐美明自身の記憶なのか判然としないが、母親と生別する前は奉天市に住んでいたこと、終戦後母親と一緒にいたが母親は中国人(男、氏名は覚えていない)と同棲していたこと、一九四六年あるいは一九四七年ころの秋に中国人によつて馬車に乗せられて連れ去られたことなどを繰り返し述べている。

〈4〉 その後、徐美明は肉親捜しのために来日し、昭和五七年二月二〇日広田すゑと面接したが、広田は、徐美明の顔は姉とくに似ておらず、徐美明が姉について述べることは、広田が手紙で知らせた内容ばかりであり、中国当局の調査を一方的に信じることはできず、林理祥にさらに事実関係を確めたいとして徐美明を姉とくの子であることを確認するに至らなかつた。

〈5〉 不在者石上浪子に関し未帰還者として厚生省等が調査した際の関係資料(前記一2〈10〉)によると、石上里が不在者浪子と生別したときの状況については、前記里が申立人に語つていた内容とほぼ一致しており、また里が回答したと認められる資料中には、不在者は当時新民街の日本人の経営する幼稚園に通つていたという記載がある。

〈6〉 徐美明の血液型(ABO式)はB型である。(前記のとおり、申立人の血液型はAB型であるから、申立人と里との間にはB型の子が生まれる可能性があり、この点に関しては徐美明を申立人の子としても矛盾は生じない。)

3  2記載の各認定事実に照らして検討するに、結局のところ、前記一2及び3の各資料中には、徐美明は、大沢幸子と同一人ではないかという点について有益な資料はあるものの、前記二4〈1〉ないし〈5〉に付加して、徐美明が不在者石上浪子であることを推測させるような有力な資料はほとんどないといつてよい。ところで、申立人に対する審問結果(一、二回)によれば、申立人は肉親どうしの情に基づく直感により、申立人と徐美明とがお互いに親子の確認をしえたということを強調していることが認められる。確かに、本件のように一方の当事者が幼いときに親と生き別れとなり、現在までに既に四〇年近い年月が経過している場合に、親子関係を確認する有力な資料が乏しいのは当然であり、厳密な証明を要求することはかえつて当事者に酷な結果となり、したがつて資料不足を補うものとして肉親間の直感というものを一概に排斥することが相当でない場合もあろう。しかしながら、本件においては、石上真及び石上京一に対する各審問結果によれば、一族の中で徐美明を不在者浪子であると確信しているのは、現在のところ申立人一人しかいないもようであり、また、徐美明を不在者浪子とするには次のような疑問も残るのである。すなわち、前記のとおり、不在者浪子が昭和二〇年九月二〇日母親のもとから連れ去られたとすると、不在者は当時五歳九ヶ月であるから、経験則に照らして考えれば、家族の状況等についての具体的な事実、たとえば弟が二人いたことなどをもう少し明確に記憶していてよいと思われるし、また、幼稚園に通園していたというならば、幼稚園についての思い出も有していてよいはずに思える。ところが、これら具体的事実は徐美明の手紙の文面に出てこないし、申立人との面接結果にも反映されていないのである。さらに、もしも徐美明がこれまでの手紙の中で説明しているように、中国公安局の調査(前記のとおり、徐美明につき中国当局のいわゆる孤児証明が発行されている以上、徐美明が日本人の孤児であるか否かにつき、中国側の調査が行なわれたことは間違いないものと思われる。)により母親と同棲していた中国人林光成が突き止められたとすると、徐美明が日本に送付してきた前記大沢とくの写真及び林光成の徐美明あて手紙(写し)は、徐美明の身元調査のうえではこれを無視できない有力な資料となり得るのであつて、徐美明は大沢幸子であるかも知れないという可能性を完全に否定できない状況にあるといわざるをえないのである。

4  以上の次第であつて、徐美明が不在者石上浪子と同一人であると認定するに足る資料はなく、またこれをいわゆる肉親間の直感によつて補完することも相当でないから、結局徐美明が不在者浪子であるかどうかは不明であるという結論に達せざるをえない。

四  結論

以上検討した結果によると、徐美明が不在者石上浪子と同一人であるとの認定ができず、結局不在者石上浪子が生存することの証明がないことに帰し、本件申立ては理由がないからこれを却下することとし、主文のとおり審判する。

(家事審判官 井上哲男)

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